祖母の他界について


コラムの更新ができないまま、いつの間にか8カ月が経過。今年もはや12月になってしまいました!実のところこのコラムは書きかけのまま何度も中断しており、ようやく今回掲載した次第です。毎回つまらない内容では有りましたが楽しみにしてくださっていた方も多く、ご迷惑をおかけいたしました。 今回は久しぶりのコラムですが、内容は7月に他界した祖母の病気のこと等を書いておりますので、リラックスしようとインターネットを開かれた方や、楽しく文具の情報をチェックしようと訪れられた方には、不要な情報でご気分を慨されるかも知れません。また、今現在ご家族やご本人がご病気の方には嫌な気分にしてしまうかも知れません。もしその様な方がおられましたら大変申し訳ございませんが今回だけはご容赦下さい。

さて、表題の通り去る7月19日(水)に、私の祖母が81歳で他界いたしました。本人には最後まで隠しておりましたが、今年2月の時点で末期がんの為、余命2ヶ月、有効な手術も抗がん剤も無いと医師から告げられておりました。しかし、祖母は何の治療も受けないまま、病名も分からない不安な毎日に耐え、亡くなる直前まで入院もせずに5ヶ月間以上も頑張ってくれました。3月、4月と体調が良くなったことも有り、亡くなる数週間前まで畑や庭の手入れをしたり、家の片付けや掃除、洗濯、料理等をやってくれておりましたので、6月中頃から急激に病状が悪化し、7月に亡くなってから今日に至るまでの時間が嘘の様に感じられます。私は毎日祖母と隣の部屋で寝起きしており、通院や買い物、畑の手伝い等をしていましたので、未だに夢を見ている様な感覚で、祖母が亡くなったのが信じられない気持ちになります。

今年2月17日、祖母について病院に行った私は、医師からそっと呼び出され突然祖母の余命を聞かされました。何の予測もしていなかったところに衝撃の事実を告げられ、失神しそうになりながらも祖母に悟られまいと必死に正気を保って笑顔を作りました。その日は病院で7時間以上も待たされたので、外で夕飯を食べて帰ることにしたのですが、医師から「癌では無い」と告げられ安心した祖母は珍しくお寿司とおうどんをぺろっと食べてくれました。私はと言うと、祖母に何か悟られまいと必死に食べ物を胃袋に流し込んでいましたが、その時の食事の辛さは生涯忘れることができません。目の前にいるこんな元気そうな人が死んでしまうなんて!しかも残りたった2ヶ月しか一緒にいられないなんて! 

私はそれまで、仕事のこと、家のこと、何でもかんでも祖母に相談して助言を求めてきました。祖母は高齢ながら、政治や経済、商売のことにも明るく、「最近はこんなものが流行っているらしいで」とか、「こんな商品を売ってみたら?」とかアドバイスをしてくれ、それがいつも的確であったと思います。それ以外にも、あらゆる農業や家事に精通しており、1人で家を2件も建て、お葬式を4件も出し、戦中・戦後と尋常でない苦労をしてきた人ですので、私は祖母の話すことを心の底から尊敬して聞いておりました。性格もよく似ており気が合ったのも事実で、業界の大先輩とも、親友の1人とも思っていた気がします。私の親父は伝票の書き方ひとつ教えてくれたことのない人ですので、私の仕事(商売)に関しては殆ど、祖母との二人三脚であったとも思います。

そんな祖母に絶対相談できない悩みを抱えてしまった辛さは想像以上のものでした。その日からは、クルマの中や風呂場などで1人になると涙がボトボト流れ出す毎日でした。クルマで走っても「ああここの病院にも送ってきたなー」とか「ここのお店にはよく買い物にきたなー」とか。それまで何も知らずにのん気に過ごしてきた自分が腹立たしく、悔やんでも悔やみきれない思いで一杯でした。祖母に病気のことを隠す毎日は本当に辛いものでした。祖母がテレビで癌をテーマにしたドラマやドキュメンタリーなどを見ていた時は、内心「見て欲しくないなー」と言う気持ちで一杯でした。しかし、私が高校生の頃、重い病気にかかり入院した際、祖母が必死に尽力してくれたお陰で、回復できたことを思い出し、いくら辛くてもあと数ヶ月で祖母は亡くなってしまうと分かっている。それならば、自分の一生の内の僅か数ヶ月、全て祖母の為に使おう!という気持ちになりました。人生の中の数ヶ月間を他人の為に使うことくらい何でも無いと思ったのです。

とは言え、一時は仕事もろくに手に付かない状況でした。コラムに関しても、どうも祖母の病気のことしか考えられず、何か文章を書く気になれなくなってしまいました。そんな私が助けられたのがインターネットを介してご注文いただいたり、メールをいただいたお客様方の存在です。祖母の病気のことが頭から離れず、胃の痛い毎日でしたが、嬉しいことに、インターネットを通じたお客様からのご注文が増加し、大口の名入れ注文なども頻繁にいただく様になり、祖母にも毎日良い報告をすることができました。「今日は〜のお客様がこんな商品を注文してくれたよ!」「こんな大口の注文をいただいたよ!」等と報告すると、「そんな遠くのお客さんがうちに注文してくれるて、夢みたいな話やなー」「ありがたい話やなー」と喜んでくれました。この店は祖母が何よりも大切にしてきたものですし、私のインターネットでの仕事を誰よりも応援してくれていた祖母ですので、辛い毎日を送っていた私ですが、お客様方のお陰で、祖母に良い報告ができたことに心より感謝しております。これは私の力だけではできなかった祖母への大きなプレゼントになったと思っています。

祖母は入院の当日、「枕元に置いておくメモ帳が欲しい」、と申しましたので用意したのですが、その時試し書きした文字が「スミ利」という文字でした。これが祖母が書いた最後の文字となったことに私はとても感慨深い思いになりました。そして、入院中も意識がモウロウとする中、自分自身の心配ではなく、家族の食事の心配や、私の健康の心配、家の心配を口にしてくれました。私は前々から、祖母も容態が悪化すれば、ただ耐えることだけで精一杯になり、私たちのことまで考える余裕は無くなるのだろうか・・・と心配しておりました。ところが、祖母は「ビールでも買ってきて飲んで、寝いな」「工事はどうなってる?(当時、家の改修工事を行う予定になっていた)」「お風呂の残り水が勿体無いから洗濯に使える様にしいや(水周りの工事について心配していた)」「ちゃんとご飯食べてるか?」「幸せな人生送ってや」・・・・。自分が正に死にそうなくらい苦しい状況で、何一つ弱音を吐かず、それどころか最後の最後まで私たちのことだけを心配してくれたのです!

結局、祖母は入院から2週間近く経った日のお昼前、私が朝の配達を終えて病院に到着したほんの数十分後に静かに息を引き取りました。家族の中で祖母の最後に立ち会えたのは私だけでしたが、恐らく私の到着を確認して安心したのだと思います。私としても物心ついたときよりの懸案であった「祖母の死目に会う」ことができ、ひとつ肩の荷が下りた気がしたのも事実です。ですが、私が生まれてから30年近くも毎日一緒にいた人がいなくなったのですから、その悲しみは想像以上でした。特に、家族の中で殆ど唯一の私の理解者であった祖母がいなくなったことは大きく、日中は仕事やら何やらでバタバタとして過ごしてはいるものの、葬儀から数ヶ月経った今でも、「祖母には色々と迷惑をかけてばかりで、何一つ十分なことをして上げられなかったなー」と思い出すと、悔しい気持ちになり涙が出てきます。

そんな状況でしたが、私も最近はようやく少し落ち着いてきましたので、長らく手がつけられないでいたコラムに今回ようやく着手した次第です。本来ですと、また別の話題を書きたかったのですが、祖母が闘病中や葬儀の前後には、私たちが精神的に辛い状態で仕事をしていたことも有り、お客様への対応に至らぬ点があったかと思います。また、お客様の中には色々と優しいお心遣いまでしていただいた方もあり、心から感謝いたしております。そんなことで、2月以降のお客様に対する、私どもの対応に色々と反省する気持ち、お詫びしたい気持ち、感謝したい気持ちがずっとございましたので、今回あえてこの様な内容のコラムとさせていただきました。実際、この文章を書き始めてから、数ヶ月間、途中で何度も中断しておりました(ちょっと書くと祖母のことを思い出してしまいどうしても筆が進みませんでした)ので、自分でも何が言いたいのかよく分からない内容になっておりますが、何卒ご容赦いただきたいと思います。

最後に、生前祖母がお世話になった皆様方と、当店にお付き合いいただきましたお客様方に、この場をお借りして心よりお礼を申し上げますと共に、色々と至らぬ点がございましたことに心よりお詫びを申し上げます。今後とも当店を宜しくお願いいたします。


今後は、コラムの方もできる限り頻繁に更新できるように頑張っていこうと思いますので宜しくお願いいたします。次回は近いうちに、パイロット社の88周年記念万年筆について書こうと思っております。実はこの万年筆は既にほぼメーカー完売となっておりますが、祖母のことなど、この数ヶ月間色々有りまして、パイロットの88周年記念万年筆に関しても、ホームページ上でほんの少しご案内しただけで、写真や詳しい情報もご掲載せずにおりました。にもかかわらずお買い上げいただきましたお客様には心よりお礼申し上げます!今後はできる限り色々な情報を素早く掲載できるようにしたいと思いますのでご期待下さい!

2006年12月01日  藤井稔也



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